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福井銀行では、日頃の感謝をこめてオリジナルカレンダーをお渡ししております。
2020年のカレンダーは「福井の伝承・民話」をテーマに作成しました。
福井県内各地に伝わる昔話を、描き下ろしのイラストと物語で表現しています。
個性豊かなお話から、福井の風土や文化、歴史を感じていただけましたら幸いです。
1500年もの昔、山々に囲まれた五箇の村では、わずかな作物で飢えをしのぐ暮らしをしていました。
あるとき畑を耕していた村人が顔を上げると、すぐ側を流れる岡太川になんとも美しい姫が立っております。
姫は語りかけて言いました。「この地には田畑にできる土地は少なくとも、美しい川がある。この川で紙を作れば、きっと暮らしは楽になるでしょう」驚いた村人が仲間を呼んでくると、姫は衣を脱いで竿に掛け、手ずから紙の漉き方をひとつひとつ丁寧に教えました。村人たちは礼を言い、姫に名前を訪ねました。「岡太川の川上に住む者」。そう言ったきり、その姿はこつぜんと消えてしまったのです。
きっとあの姫は、神様だったに違いない。そう考えた村人たちは、紙漉きの技を大事に守り伝え続けることを誓い、紙づくりに励むようになりました。甲斐あって、暮らし向きも段々と楽になっていったといいます。
姫は「川上御前」として神社に祀られ、紙を生業とする人々に崇められるようになりました。今でも五箇の紙屋では、必ず部屋の一番高いところに川上御前の像が鎮座され、自ら伝えた紙漉きの技を見守っていらっしゃいます。
ある帝に、大変美しいお妃様がおりました。
お2人は仲睦まじく暮らしていましたが、横恋慕をした悪い大将が策略を巡らせて、帝の位を横取りしてしまいました。
しかし愛する前帝の子を身ごもっていたお妃様は、新しい帝に従おうとしません。怒った帝が彼女の足を笏で打つと、不思議なことにその傷からは鶴の羽が生えてきました。
子どもの誕生を恐れた帝は、お妃様を丸木舟に乗せて湖に流してしまいました。流れ流れたお妃様は、越前の炭焼きに拾われます。事情を聞いた炭焼きは、お妃様を自分の炭焼き小屋にかくまいました。そしてそこで、玉のような男の子が生まれたのです。
時が流れ、都にとある母子が現れました。足に生えた鶴の羽から、それがお妃様と王子様だと分かると、子どものいなかった帝は位を譲らざるを得ませんでした。
息子の即位を見届けたお妃様は、命を救ってくれた炭焼きを訪ねましたが、どこにも姿がありません。ただ、和歌の上の句が書かれた紙が落ちています。下の句が書かれた紙は神社の中で見付かり、この炭焼きが実は神様だったことが分かりました。神様の炭焼き小屋は、「足羽の宮」と呼ばれるようになりました。
東大寺のお坊様は、厳しい行を始めるに当たって、日本各地の神様にお集まりいただき、守護をお願いすることにしました。
全国から東大寺に大集合した神様たち。
しかしただ1人、若狭の国の遠敷明神だけは、いつまで経っても一向に到着する気配がありません。神様たちは口々に心配し合っていました。
全14日間にも及ぶお坊様の厳しい行が残り2日となった晩、ひょっこり姿を現した遠敷明神。「若狭は魚の宝庫。魚釣りについ夢中になって遅れてしまった」と平謝りです。「遅れたお詫びに、仏様にお供えする香水を用意した」と話すと、外にあった岩の前に座りました。遠敷明神の呪文と共に、大きな岩は真っ二つ。中から2羽の鵜が飛び出し、続けて清らかな水が湧き出てきました。
「若狭から地下を通して運んできた水だ」お坊様は喜び、さっそくその水を仏様に供えて残りの行を無事に終えました。
東大寺に残る若狭井は、このときの岩を囲ったもの。不思議なことに普段は一滴の水もなく、若狭での「お水送り」行事に合わせてこんこんと湧き出るといいます。この水を汲んで仏様にお供えする東大寺の「お水取り」は、今や全国に知られる伝統行事となっています。
正直なじいさんは、白い犬を本当の子どものように可愛がっていました。
ある日山へ行くと、犬が裾を引っ張って、「ここ掘れワンワン」としきりに吠えます。犬の言うとおり地面を掘ってみると、たくさんの金が出てきました。
それを知った隣の欲張りじいさん。犬を無理矢理借りて、山へ連れて行きました。しかし地面を掘ってみても、出るのは瓦や糞ばかり。怒った欲張りじいさんは、犬を殺してしまいました。
正直なじいさんは犬を庭に埋め、そこに松の木を植えました。すぐに大きくなった木で臼を作り、米を搗いてみると、搗く度にたくさんの金が出てきます。
やはり臼を借りた欲張りじいさん。搗いた米はみんな砂になり、怒って臼を焼いてしまいました。
正直なじいさんは臼の灰をもらって帰りました。すると不意に風が吹き、灰のかかった枯れ木に花が咲いたではありませんか。それが噂になり、評判を聞いた殿様は、目の前で花が咲いていく様子に大喜び。褒美にたくさんの金を与えました。
もちろん、欲張りじいさんは黙っていません。殿様の城に押しかけ、譲ってもらった灰をまきました。しかし花は咲かず、それどころか灰が殿様の目や鼻に入って、たいそう重い罰を受けたそうです。
むかし深谷村のシイという若者は、とんでもない怪力で知られていました。
あるときは、険しい検見坂という坂道を大岩をかついで登り、村人たちの休み場を作りました。またあるときは、手近な竹を折って素手で握りつぶし、それをまわしに相撲大会へ参加したこともあります。もちろん周りは彼を恐れ、シイは戦わずして横綱になりました。
そんなシイが黒牛に米俵を2つ背負わせ小浜の町に出かけたときのこと。五十谷橋を渡ろうとして、向こう岸から検見の代官の一行がやって来るのに気付きました。シイは気にせず歩を進め、とうとう橋の中ほどで両者が行き会ってしまいました。狭い橋の上で牛を連れていては、すれ違うこともできません。「代官様の道をふさぐとは何事じゃ!」と怒鳴りつける代官の家来。しかしシイはあわてず、米俵ごと黒牛をヒョイと持ち上げてしまいました。そのまま橋の欄干の外に差し出して、一行が通れるように道をあけたのです。
代官たちの驚くまいことか。シイの怪力は殿様にまで知れて、とある侍頭に仕えることになりました。1年の勤めを終えた褒美に一斗もの餅を平らげて、殿様や役人たちをあっと言わせたということです。
坂井平野を流れる十郷用水。米づくりに欠かせぬ用水として今も使われていますが、その起源には不思議な話が言い伝えられています。
昔々、坂井平野のあたりは水の利が悪く、あまり米の育たない地域でした。
これを憂えた国司が米が取れるよう祈ったところ、ある夜の夢の中に、白い鹿に乗った春日明神が現れて告げました。「九頭竜川が山から湧き出るところに行きなさい」目覚めた国司が九頭竜川の水源へ行ってみると、そこに大きな鹿が姿を見せました。鹿は高く鳴いた後、口にくわえた弊を振り回し、西に向かって歩き出しました。これぞ神のお使い、と鹿の歩く方向へ着いていくと、高倉という場所まで来たところで、その姿はふいと消えてしまいました。
鹿の歩いた後を掘り進めたところ、無事九頭竜川から水を引くことができ、たくさん米が取れるようになったそうです。
これが今の十郷用水で、鹿の鳴いた地は「鳴鹿」と呼ばれるようになりました。
昔々、小川のそばにお母さんと太郎という男の子が暮らしていました。
太郎はお母さんを助けてよく働きましたが、ある時、山で大雨にあい、病気になってしまいました。お母さんは毎日必死で看病しましたが、太郎の熱はなかなか下がりません。
とうとう疲れ果てて太郎の側でウトウトしていたある夜のこと。
「あの、もしもし」とどこからか呼ぶ声があります。お母さんが声の主を探すと、部屋の隅にシジミがひとつ転がっていました。「私たちはそこの小川に住んでいるのですが、この前の大雨で流されてきました。このままでは海まで流されて死んでしまいます。どうか川上に戻してもらえませんか?」お母さんが「お安いごよう」と笑いかけると、シジミは「お礼に太郎の病気を治して差し上げます」と言ってどこかへ行ってしまいました。
夢うつつのまま、月明かりを頼りに小川をのぞき込んで見ると、確かにそこにはシジミがたくさんいます。
お母さんはシジミをザルですくって、川上まで連れて行ってやりました。何度も山を往復し、ようやく全てのシジミを助け終える頃には夜も明けようとしていました。そうして家に帰ると、すっかり病気の治った太郎が元気に出迎えてくれたのでした。
夜叉ヶ池の近くには、長い干ばつに苦しむ村がありました。
田はことごとく枯れ、蓄えも尽きかけようという時、とうとう耐えかねた弥平次という豪農が池を訪ねました。
水面に現れたのは、池の主の大蛇。弥平次は大蛇に言います。「田に水を入れてくださるなら、私のひとり娘を嫁がせましょう」大蛇はこの願いを聞き入れました。
翌日には、枯れ果てていた田に清らかな水が満ち、作物はみるみる元気を取り戻していきました。
弥平次は喜ぶ反面、可愛い娘のことを思うと胸が張り裂ける思いです。娘は気丈にも、「約束を違えるわけにはいきません。私は池に参り、末永くこの地を見守りましょう」と弥平次を促し、池へ向かいました。そして大蛇に嫁入りすると、自らも蛇の体となり、2匹で水の中へ消えていったのです。
娘はのちに龍神となって、干ばつの年には雨を降らせ、地域を守り続けているといわれています。
大野の西谷のあたりには、「中島」と「小沢」という2つの地域がありました。
しかしこの2つの地域の間にははっきりとした境界がなく、それぞれの殿様が話し合って、「朝、両方から出発して出会った所を境にしよう」ということに決まりました。
中島の殿様は馬を持っておりましたので、安心してゆっくり出発しました。
しかし小沢の殿様には馬がなく、牛しか持っておりませんでしたので、心配してまだ暗いうちから出発しました。
そして両人が出会ってみると、そこはなんと中島から出てすぐの坂のところ。あまりに中島に近かったため、中島の殿様は思わず「なんまいだ」と唱えました。
これでは中島に近すぎるということで、中島の殿様は小沢の殿様に少し戻ってほしいと頼み込み、牛を押し返して行くと、ある場所で牛がぴたんと動かなくなりました。そこでここを境界に定めたというお話。
中島の殿様が「なんまいだ」と唱えた坂は「あみだ坂」と呼ばれ、牛が止まった場所は「牛谷」と呼ばれるようになったそうです。
嶺北に広がる越前平野は、かつて一面の大きな湖でありました。
この湖には悪い黒龍が住み、たびたび水を溢れさせては周囲の家や畑を沈め、人々を困らせていました。
越前の出身であったと伝えられる継体天皇は、これをなんとか助けてやりたいと思い、足羽山にのぼって弓を引き絞り、海に向かって力一杯矢を放ちました。
足羽山から放たれた矢は湖の上をぐるぐると回り、やがて海に飛び込みました。
するとそれに従うかのように、湖の水はどんどん海へと引いてゆきます。海から飛び上がった矢は再び戻ってきて、足羽山のふもとに突き立ちました。それでこの地は「立矢」と呼ばれるようになりました。
広大な湖はすっかりなくなり、後には平野が残るのみ。海へと向かう水の流れは「黒龍川」となり、今では九頭竜川と呼ばれています。
むかし、いじわるな継母は継子の娘をいじめて辛い仕事ばかり言いつけていました。
しかし素直な娘は、どんな仕事にも耐えて言われたことを全部きちんとこなしていました。
継母はそんな娘がますます憎く、困らせたくてたまりません。火にかけた鍋でよく煎った豆を渡して、「この豆を畑に植えてこい」と言いつけました。
娘は言われたとおり畑に植えて、毎日心を込めて世話をするのですが、煎り豆が芽を出すはずもありません。「お前の植え方が悪い、育て方が悪い」と、継母は娘をののしります。
しかしそれでも娘が懸命に世話を続けたある日のこと、なんと1粒だけ芽を出した豆があるのです。継母はびっくり仰天。豆の木はぐんぐん大きくなり、誰も見たことがないほど沢山の実を付けました。
「あの子が一生懸命世話をしたのが、仏様にも届いたのだ」そう感じた継母は改心し、娘をいじめることもなくなりました。豆の木の幹で作った太鼓は、永平寺に宝物として寄進されたということです。
むかし敦賀に、味が良ければ愛想も良いと、たいへん繁盛しているそば屋がありました。
このそば屋には、毎日欠かさず来ては、かけそばを5杯ほど食べるそば好きの男がおりました。
あるとき、いつもより早い時間に店に着いたそば好きの男。主人はまだ店の準備をしている最中だったので、茹で上がるまで待たせてもらおうと、店の隅に上がって居眠りを始めました。
一方、主人が板の上でそばをこねていると、どこからともなく蚕のような虫が現れました。よく見ると、板の周りにこぼれたそば粉を舐めているようです。「そば好きだなんて、変わった虫もいるものだ」主人は不思議に思いましたが、つまみ取って外に捨ててしまいました。
そばが茹で上がったので、寝ていた男を起こして「へい、おまちどおさんです」と出来たてのそばを置きます。しかし、男はなぜか箸がなかなか進まない様子。
実はあの虫は、男の腹の中にいたそば好きの虫で、茹で上がりを待ちきれず外に出てきていたのでした。それを主人が気付かず追い払ったせいで、男はすっかりそばが苦手になっていたのです。1杯をやっと食べ終えるとそそくさと出て行き、その後二度と姿を現すことはありませんでした。
「深谷のシイ」「出会い坂」「そば好きの虫」
出典『若狭・越前の民話』杉原丈夫・石崎直義 共編
未来社