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福井銀行では、日頃の感謝をこめてオリジナルカレンダーをお渡ししております。
福井県内に伝わる無数の民話や伝承。
その登場人物を見てゆくと、信仰に篤く、思慮深さを尊び、厳しい自然と共存してきた私たちの祖先の姿が浮かんできます。
気候風土や当時の文化、社会を背景に語られる、日常生活、暮らしの知恵、そして日々の喜怒哀楽。
語り継がれてきたのは、地域の歴史であると同時に、人々の生きた証でもあるのです。
令和の新時代、たくましき先人たちの姿から、日々を生きるヒントや意欲を得られる物語を紹介します。
なまけ者の五郎兵衛は、働くことが大嫌い。家財を売って食いつないでいましたが、そのうち家の中は空っぽになり、先祖代々伝わるという箱が一つ残るだけに。困った五郎兵衛が箱を開けてみると、底に鯉の染付が入った、薄汚れたどんぶりが一つ入っていました。
「人の良い庄屋さんなら、家宝と言えば買ってくれるかもしれぬ」と庄屋の屋敷を訪ねると、果たして優しい庄屋は五郎兵衛を哀れに思い、米三俵と替えてくれました。
しばし経って村祭りの日、宴席で庄屋が皆にどんぶりを見せるうち、「試しに水を入れてみては」という者がおりました。その通り水を入れたところ、なんと染付の鯉がむくむくと浮かび上がり、元気よく泳ぎ出したから一同大騒ぎ。
驚いた庄屋から「こんなにすごい宝物をもらうわけにはいかない」とどんぶりを返してもらった五郎兵衛ですが、何度自分で水を入れても鯉は染付のまま。しかし庄屋が水を入れると、やはり姿を現して悠々と泳ぐのです。
「これはご先祖の戒めに違いない」と反省した五郎兵衛は、以来、まじめに働くようになりました。
ある村の爺さんは、婆さんが毎日作る菜飯にすっかり飽き飽きしていました。そこで婆さんの包丁を密かに隠し、「もう菜飯を作らない」と約束させた上で、占いの真似事をして見付け出してみせました。
しかしこれが噂となり、町の旦那の耳に届きます。屋敷に招かれて大いにもてなされた爺さんは、「大事な手鏡が無くなったので見付けてほしい」と頼まれて大弱り。
「占いをするから」と離れ座敷にこもって逃げ出す機会をうかがっていると、足音を忍ばせて一人の下女が訪ねてきました。そして「父親の薬代ほしさに手鏡を盗んで井戸に隠したものの、占い名人には敵いません。どうか見逃してください」と涙ながらに打ち明けるので、爺さんは幸運にも手鏡の行方を知ることに。翌日、占いどおりに手鏡が見付かって、旦那は大喜びです。爺さんはもらった大金から薬代をこっそり下女に渡し、家に帰りました。
占い名人の名声はますます轟(とどろ)き、ついには殿様から呼び出された爺さんですが、ここでも幸運を授かって“占い”を的中させ、たくさんの褒美をもらったということです。
長山のお初ギツネと、寺尾のお夏ギツネが「化けくらべ」をすることになりました。
名月の夜、庚申野でまずお初が化けてみせたのは「狐の嫁入り」。提灯を下げた露払いに続いて、籠を担いだ行列がしずしずと進み、それは見事な花嫁行列です。これを見たお夏はすっかり意気消沈して、「また後日」と帰って行ってしまいました。
しかし数日後、2匹が五本寺の地蔵近くを歩いていたとき、お夏はたまたま遠くから近づいてくる殿様行列に気付きます。そして「しっかり見ておれ」と言って、お初を残して姿を消しました。お初が言われたとおりにお地蔵さまの陰に隠れて見ていると、なんとも素晴らしい殿様行列が現れるではありませんか。しばらく我慢していましたが、とうとうお初は感心のあまり「お見事!」と行列の前に飛び出してしまいました。たちまち本物の侍たちが飛びかかって来て、お初は「冗談はやめてくれ!」と叫びながら命からがら逃げまわる羽目に。
人をだますのは卑怯なことで、勝負は正々堂々とするものだと、昔から親が子に諭し伝えたお話だそうです。
滝沢寺の和尚が京の都で修行をしていたときのこと。
道に十八人の子どもが集まり、泥団子で二十三体の観音様を作っているところを通り掛かリました。その出来の良さに感心していると、子どもたちは一番上手にできた観音様を和尚にくれると言います。礼を言って頭を上げると、不思議なことに誰もおりません。仏の縁を感じた和尚は、土の観音様を肌身離さず身に付けていました。
ある年、旅に出た和尚ですが、山の中で迷ううちに日が暮れてしまい、ようよう見付けた民家で一晩の宿を乞いました。中にいた夫婦が快く応じてくれましたが、2人は実は盗賊で、和尚が寝入るやいなや、その首を刎ねてしまったのです。
翌朝、夫婦が目を覚ますとなにやら読経の声が聞こえます。恐る恐る見ると、昨夜殺したはずの和尚が生きているので驚いたのなんの。話を聞いた和尚が懐に入れていた土の観音様を取り出して見ると、首に深い傷が付いていました。「観音様が身替わりになってくださったに違いない」と伏し拝む様子を見て、さしもの盗賊もすっかり改心してしまいました。
いまや見事な田が並ぶ和田の水田地帯は、かつて沼地だったといいます。江戸時代初期、沼を埋め立てて豊かな耕地をつくったのは、一人の乳母でした。この乳母は和田村の生まれで、小浜の酒井忠直という殿様に仕えていましたが、実に忠誠を尽くして奉公したので大変喜ばれていたのだそうです。
ある日、「ほうびを取らせるから、何なりと申せ」と殿様から申し渡しがありました。乳母は少し考えて、こう言いました。「私の郷里は沼が多く、昔から耕地が少のうございます。この沼地を埋め立てて耕地にしてくだされば、村は必ずや繁栄することでしょう。私のほうびごときは望むところではありません。どうか、この埋め立てをお願いします」。
その故郷を思う気持ちに感心した殿様は、すぐさま村々から人夫を集め、大規模な埋め立て事業に取りかかりました。埋め立て用の土には、月見山の土が多く使われたといいます。やがて沼は消え、和田には多くの田が並ぶようになりました。乳母は満足げに、いつまでもその水田を眺め続けていたということです。
昔々、笹やぶを歩いていた大国主命(おおくにぬしのみこと)が、誤って笹竹の枝で目を突いてしまいました。命(みこと)はさまざまな治療を試みましたが、治るのに時間がかかり大変苦しい思いをしました。そこで「眼病で苦しむ民が早く治るように」と、篠座神社の境内に、どんなにひどい目の病も癒やす霊水を湧かせたといいます。
この噂を聞いて、遠くから杖を突き突きようやく霊水のもとに辿り着いた1人の年寄りがおりました。若い頃から長く眼病を患っていたため、その目は目ヤニに覆われほとんど見えなくなっていましたが、そっと霊水で目を洗うと、ほのかに目の前が明るくなったような気がします。年寄りは神様に感謝し、日参を始めました。毎日、目を洗っては神様にお祈りをすること約ひと月、眼病はすっかり治ってしまいました。
年寄りは喜び、帰路のあちこちで霊水のありがたさについて話したため、この水は眼病を患う人々に霊験をもたらす「篠座の目薬」として、広く知られるようになりました。
なお、篠座地区では命の苦難を思い、今でも笹竹を作らないことにしているそうです。
浦底の里には大きな池があり、澄み切った水の中に赤、白、斑(まだら)の美しい金魚たちが棲んでいました。あまりの美しさに誰もが見とれて、しまいには捕まえたくなるほどでしたが、村には「あの池の金魚は池の主のお遣いだから、けっして捕ってはならん」という言い伝えがあり、池に近づく者はいませんでした。
しかしある日、たまたま通りがかった猪之助(いのすけ)という若い漁師が、ふと池をのぞきこみました。たちまち、美しい金魚に目を奪われて動けなくなった猪之助は、哀しげなうたを耳にします。
「出たいな出たいな、この池を 早く出たいな、いきたいな 海をわたって竜宮へ 月夜の晩にいきたいな」
金魚のうたに魅了されてしまった猪之助は、それから毎日池に通い始めました。村人たちはこのことを知り、「あの池に行くでない、悪いことが起きるぞ」と引きとめましたが、全く聞こうとしません。
そして十五夜の満月の晩、とうとう猪之助は池の淵にぞうりだけを残して姿を消しました。猪之助が竜宮城へ連れて行ったのか、金魚の姿も無くなり池は静まりかえっておりました。
昔、米ヶ脇(こめがわき)に伊作という漁師がおり、夕方ごろにひとり海で投げ網を打っていました。手ごたえがあり網を上げましたが、魚は一匹もおらず、代わりに入っていたのは黒い木の根っこのようなもの。よく見ると木造りのお不動様です。魚が捕れないことに腹を立てた伊作は、お不動様を元の海に投げ込んで、場所を変えて再び網を打ちました。
しかし今度も魚は一匹も捕れず、それどころか、今投げ込んだばかりのお不動様がまた網に入っています。伊作はギョッとしましたが、魚が捕れないのをお不動様のせいにして毒づきました。「不動さん、不動さん、また海に放り込まれるのが嫌なら、次の網で魚を捕らせてみなされ」。
そうして打った三度目の網、引き上げて伊作は思わず叫び声を上げました。網も破れんばかりの大漁だったのです。驚きのあまり震え上がり、あぶら汗を流しながらお不動様の前にひれ伏して拝みました。
こうして伊作の手によって引き上げられたお不動様は手厚く祀られ、今も米ヶ脇白山神社の末社、滝神社のご神体となっています。
文室(ふむろ)の円海長者は、見たこともない大きな赤牛が川原に寝ているのを見付けました。翌日もその翌日も変わらずそこにいるので、「これは捨てられたな」と連れ帰って世話をすることに。長者の家でも牛は毎日食べて寝るばかりでしたが、草をたっぷり与えられ大切にされていました。
一方、都では大きなお堂を建てることになったものの、若狭で切り出した大木があまりに重くて運べずに困っていました。そこで占いをすると、長者の赤牛ならこれを曳けると出たので、役人が牛を迎えにやってきました。長者が「どうか木を曳いておくれ」と声をかけると、牛はのっそり立ち上がり、名残惜しいのか、よだれで石にお経のような字を書き残して歩き出しました。
そして若狭まで辿り着き、括り付けられた手綱を力一杯引っ張ると、大木がミシミシと音を立てて動き出したのです。長者も必死で牛を励まし続け、とうとう大木は都まで運ばれました。
牛が恩に報いたおかげで、長者はたくさんの褒美をもらったのだとか。牛が字を書いた石は、「よだれ石」として今も正高寺に残されています。
越前の国に世恒(よつね)という信心深い男がおりました。とても貧しい生活で、ある日とうとう空腹に耐えかねた世恒が「わずかな飯で良いのでお与えください」と神様に祈願すると、目の前に美しい女性が現れました。そして「この書き付けを山に持って行き、『なりた』と呼びなさい。出てきた者に米をもらいなさい」と1枚の書き付けを手渡して消えてしまったのです。
言われたとおりに山へ行き「なりた」と呼ぶと、出てきたのは恐ろしげな鬼。震えながらも書き付けを見せると、鬼は1斗の米が入った袋を授けてくれました。喜んだ世恒はさっそく米を炊いて食べましたが、不思議なことに袋の米はいくら出しても減りません。世恒はたくさん食べて働き、だんだん裕福になりました。
それを聞きつけた越前の国司、米袋を渡すよう強引に世恒に迫ります。世恒は仕方なしに米袋を百石の米と交換してやりました。しかし国司が袋を使うと、百石から先は一粒も米が出ません。怒った国司から返された袋ですが、世恒が使うと再び米が出始め、しまいに世恒はたいそうな長者になりました。
炭焼きの甚兵衛は、毎朝夜明け前に峠を越えて町へ炭を売りに行っていました。途中にたくさんのキノコが生えているのですが、いつも皆眠っているので、起こさないように通るのが常でした。
ある日、甚兵衛がたまたま昼過ぎに峠を越えると、キノコたちが目を覚まし、歌えや踊れやの大騒ぎをしています。あまりに楽しそうなので、甚兵衛は踊りの輪に入ってすっかり仲良くなり、一緒に腰をおろしました。
「お前らは歌や踊りが好きらしいが、嫌いなものはなんだ?」と尋ねてみると、キノコたちはみそ汁だと答えます。冗談だと思った甚兵衛は、逆に自分の嫌いな物をきかれて「小判だ」と答え、家に帰りました。
翌朝、イタズラ心を起こした甚兵衛は桶を担いで再び山へ。ちょっとからかうつもりで、ぐっすり寝ているキノコたちに大量のみそ汁を浴びせました。しかし彼らは本当にみそ汁が嫌いだったらしく、慌てふためいて一目散。夜になって、甚兵衛の家へ仕返しに押し寄せました。キノコたちが次々に小判を投げつけるので、甚兵衛は一夜で長者になってしまったのでした。
八百比丘尼は、まだうら若い娘の頃に、父親が持ち帰った人魚の肉を口にして不老不死となった女性です。
肌が白くたいそうな美人だったため求婚者が絶えず、何度も結婚しましたが、その度に夫は先に老いて死んでゆき、ついに家族や友人全員に先立たれてしまいました。それでも、自分はいつまでも若い娘の姿のまま。
村人たちからも遠ざけられるようになった彼女は、死ぬことも老いることもできない悲しみに髪を剃り落として比丘尼となり、諸国を行脚し始めました。そして行く先々で、川に橋を架けたり水路を築くなど人々を救い、大好きだった椿の木を植えてまわったといいます。長い長い旅でしたが、生まれ故郷の若狭の美しさを忘れることはありませんでした。
各地に伝説を残してようやく故郷に帰ってきたとき、比丘尼は既に八百歳。人々に「この椿が枯れたら、私が死んだと思ってください」と言い残し、空印寺の洞窟にひとり入って行ったまま、二度と戻りませんでした。しかし洞窟の入口に植えられた白い椿は、今もなお枯れずに美しい花を咲かせ続けています。
「菜飯ぎらいの爺さん」「金魚のうた」
出典『若狭・越前の民話 第一集 第二集』杉原丈夫・石崎直義 共編
未來社
「和田の水田」
出典『若狭高浜 むかしばなし』資料提供:高浜町郷土資料館
「白山神社のお不動さま」
出典『三国の昔話』