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福井銀行では、日頃の感謝をこめてオリジナルカレンダーをお渡ししております。
福井県内に伝わる無数の民話や伝承。
その登場人物を見てゆくと、信仰に篤く、思慮深さを尊び、厳しい自然と共存してきた私たちの祖先の姿が浮かんできます。
気候風土や当時の文化、社会を背景に語られる、日常生活、暮らしの知恵、そして日々の喜怒哀楽。
語り継がれてきたのは、地域の歴史であると同時に、人々の生きた証でもあるのです。
令和の新時代、たくましき先人たちの姿から、日々を生きるヒントや意欲を得られる物語を紹介します。
平安時代、都にとある五位〈ごい〉(位の低い役人)がおりました。
風采が上がらず、みすぼらしい格好で町の子どもにまでからかわれるような五位でしたが、1つだけ、心からの願いがありました。正月の宴で、ほんのわずかに食膳に上る高価な「芋粥」を、腹一杯食べてみたいというのです。
この呟きを聞いた利仁という同僚が、ある日五位を湯浴みに誘いました。言われるがまま越前国までついて行くうち、辿り着いたのは、たいそう大きな利仁の屋敷。裕福な利仁は、五位に芋粥を腹一杯食べてもらおうと屋敷に招いたのです。
見ていると、下男が丸太のような芋をドサドサと屋根の高さまで積み上げ、下女は甘葛〈あまずら〉の蜜をドップドップと桶で大釜に汲み入れて煮立てます。刀で削られた芋がザラリンザラリン大釜に放り込まれる段階になると、すっかり五位の食欲は失せてしまっていました。
「さあ、腹一杯召し上がってください」と利仁に促され、やっとのことで1杯を食べ終えて「もう満腹です」と言う五位に、家の者は大笑い。下男や下女も芋粥のご相伴にあずかり、一同舌鼓を打ちました。
吉崎の寺の近くに、信心深い嫁がおりました。病で夫と子どもを失い、姑と2人ぐらしになった嫁は、昼は姑のためにけんめいに働き、夜は吉崎にお詣りする毎日です。
しかし不信心な姑は、毎晩家を空ける嫁を心良く思いません。そこで、ひとつ脅かしてやろうと家に伝わる鬼の面をかぶって夜道で待ち伏せすることにしました。たくらみ通り、嫁は暗闇で突然現れた鬼に驚き、念仏を唱えつつ吉崎へと駆けていきます。「うまくいった」と家に帰った姑。面を取ろうとしましたが、なぜかいっこうに顔から離れません。
無理に外そうとすると顔の皮が剥がれそうに痛みます。もがいているところに帰ってきた嫁は、夜道の鬼が家にいるので2度仰天。しかし姑が涙ながらにわけを話すのを聞いて、やさしく「念仏を唱えては」と勧めました。そして2人で「南無阿弥陀仏」を唱えたとたん、面は顔からぽろりと外れました。
それからというもの、姑も信心に励むようになり、嫁と2人で仲良く暮らしたということです。鬼の面は「嫁おどしの面」と呼ばれ、今も吉崎の御坊に安置されています。
大野の和泉村に、「白馬洞〈はくばどう〉」という深い深いほら穴があります。
ある時、和泉村の七左衛門という男が、「ほら穴の奥はどうなっているのだろう」と考えて、旅支度をして白馬洞の中に入っていきました。行けども行けども真っ暗なほら穴の中を進むこと七日目、突然目の前が明るくなり、大きな河原に出ました。川岸には美しい女人がおり、七左衛門を見るや「この川を渡ってはなりません」と厳しい顔で言いました。ここはどこかと尋ねると、「ここは竜宮の入口。行けば二度と戻ることはできません。早く立ち去りなさい」と諭します。しかしにわかには信じられない七左衛門、「竜宮だという証拠を見せてくれ」。すると女人は「これを持ち帰り、谷の水につければ分かるでしょう」と河原の石を手渡してくれました。
七左衛門は来た道を引き返し、ほら穴の入口まで戻ってきました。谷川の水に石をつけてその水を飲んでみると、なんと塩水に変わっています。女人は竜宮の乙姫さまだったのでした。今も白馬洞の奥は「竜宮」と呼ばれ、地域の人に大切にされています。
福井の町外れに、畑仕事も手伝わずに猫の絵ばかり描いている男がおりました。
とうとう家を追い出されても、男は「これで気兼ねなく猫の絵が描ける」と、あちこちで絵を描きながら気ままな一人旅を楽しんでいました。ある夕方、山道で泊まる場所を探していた男は、あかりの灯る一軒家を見つけました。これ幸いと戸を叩くと、家の中には空っぽの石の米びつが1つに、娘が1人きり。他には何もなくガランとしています。わけを尋ねると、娘は「この家には毎晩ネズミの化け物が出て、食べ物も家具も家族も全て食べられてしまいました」と泣きながら答えます。気の毒に思った男は、家中に何枚もの猫の絵を貼り付けて、娘と共に米びつの中に隠れました。
しばし経つと化け物が現れたようで、家の中を探る物音が聞こえます。そこで男が「ひとつ働け」と言うと、絵という絵から猫が飛び出して一斉に化け物に飛びかかりました。騒ぎが静まって米びつから出てみると、退治されていたのは驚くほどの大ネズミ。男はその娘と夫婦になり、生涯、猫の絵を描きながら幸せに暮らしました。
ある商人が川西へ商いに行くことになり、仲間から「三国の勘頂寺に住む『おはる』というきつねは化かし上手だから、気を付けなされ」と忠告を受けました。
しかしそれをばかにして商人が街道を歩いていた所、目の前を横切る1匹のきつね。草むらの中では、きつねの群れが殿様行列に化けている真っ最中でした。「おれはだまされんぞ」と構わず進むと、「下にぃ、下にぃ」の声が聞こえ、向こうから行列がやってきます。上手く化けるなぁ、と感心して見ていたところ、なんと商人は殿様行列の前に立ち塞がった罪で縛られて、奉行所に連れて行かれてしまいました。
「きつねにだまされた」と言い訳をしても許されず、あわや打首・・・というとき、駆けつけて来たのはだんな寺※の住職。その取りなしで、出家する代わりに命だけは助けてもらえることになりました。頭を剃られながら「申し訳ありません、ありがとうございます」と平謝りの商人。と、ここで通りすがりの農民に声を掛けられて周囲を見回すと、商人がいたのは元の街道。頭だけがツルツルに剃られていたということです。
※だんな寺・・・自分が檀家になっているお寺のこと
昔、山の中の古いぼろ家に、一人暮らしのばあさまと馬が住んでいました。
ある夜のこと、「とら」という盗人〈ぬすっと〉が、馬を狙って表口からこっそり家の様子をうかがっていました。同じ時、やはり馬を狙って、1匹のおおかみが裏口からこっそり家の様子をうかがっていました。
すると、ぽつりぽつりとにわか雨。雨は次第に土砂降りになってぼろ家を襲い、家のあちこちで雨漏りがし始めました。ばあさまは慌てて、あちらに桶を、こちらにタライを、と家の中を走り回り、「とらおおかみより、ふるやのもる(古家の漏る)ぞおそろし、ああおそろし」とつぶやきます。
これを聞いていた盗人とおおかみ、思わず「とらやおおかみより恐ろしい『ふるやのもるぞ』とは何だろう」と心配になりました。盗人は表口から、おおかみは裏口から、恐る恐る家の中を覗きます。すると、互いにキラリと光る目と目が合ったではありませんか。「うわぁ、ふるやのもるぞが出たぁ!」と両者はそれぞれ一目散。一方その頃家の中では、何も知らないばあさまが、走り疲れてうたた寝をしていましたとさ。
昔々、若狭の海辺の村で、じいさまが牛に水浴びをさせていました。
すると、いつもは大人しいはずの牛がなぜか妙に暴れます。しきりに後ろ足を蹴り上げるので、何事かと見ると、なんと河童が牛の足を掴んで水の中に引きずり込もうとしているところでした。「わしの牛に何をする!」怒ったじいさまは、河童を捕まえてあっという間に縄でぐるぐる巻きに縛ってしまいました。「ごめんなさい、もうしませんから」と泣いて謝る河童を見て、少し気の毒になったじいさま。「もう二度と悪さをしないと証文を書くなら許してやろう」と言うと、「明日までに必ず書いてきます」と言うので縄を解いてやりました。
翌朝、じいさまは家の入口で河童の侘び証文と、戸口に吊していた鹿の角に掛けられた大きな魚を見つけます。河童の侘び証文は、水に漬けなければ読むことができない不思議なものでした。
それから毎日魚が届くので、じいさまは欲を出して戸口の鹿の角を大きな鉄かぎに替えました。すると、鉄の苦手な河童は2度とじいさまの家に近付かなくなってしまったそうです。
山に囲まれた赤谷〈あかたん〉集落から河和田へと抜ける峠道の途中には如来谷〈ねりや〉という場所があり、苔むした大岩が今も佇んでいます。
今から700年も昔のこと、赤谷の村人が河和田での用事を済ませて峠道を帰っていると、如来谷の大岩でひと休みしているお坊さまと出逢いました。見たことのないお坊さまでしたが、目が合うと「長いことお世話になりました」と頭を下げ、手にした数珠を大岩に置いて山を下りてゆきます。村人が不思議に思いつつ家に帰ってお仏壇の扉を開くと、驚くことに中の仏さまが消えてしまっていました。「もしや」と慌てて大岩のところまで引き返しましたが、そこには数珠が置いてあるばかり。それを手に取ると、岩の上にはくっきりと数珠の跡が付いていました。
「いつも仏さまを粗末にしていたせいで、愛想を尽かして出て行かれてしまったんだ。もったいないことをした」と悔やんだ村人は、それからは仏さまを大事にするようになりました。数珠の跡が付いた大岩は、地元の人から「数珠岩」と呼ばれるようになったということです。
本町と赤尾〈あこ〉町の間を流れる子生〈こび〉川の下流に、一つの橋がかかっていました。その橋は、いろは四十八文字にならって48枚の板石を敷き詰めたので、元々は「いろは橋」と呼ばれていました。
ある時、橋近くにある西福寺から、阿弥陀さまの像を盗み出した者がおりました。盗人〈ぬすっと〉はいろは橋を渡って逃げようとしたのですが、橋に一歩足を踏み入れたとたん、腕がだるくなってきました。「おかしいぞ。仏像がずんずん重くなっていくようだ」。橋を歩くたびに仏像は次第に重くなり、中ほどまで来たときには、ずっしりと重くなってしまいました。「だめだ、もう持てない」。あまりの重さにどうしても橋を渡ることができず、盗人は仕方なく仏像を諦めることに。苦々しく舌打ちして、仏像を橋の下にどぼんと投げ捨ててしまいました。
その日から毎晩、橋の下に光明が輝くようになり、いぶかった村人たちが川の中を探ってみると、なくなったはずの仏像が現れたのでした。以来、人々はこの橋を「光明橋」と呼び、いつしか変化して「こんぺい橋」と呼ばれるようになったそうです。
昔、ある一軒の古寺に、とてもよく鳴るリンがありました。和尚さんは子どもが大好きで、いつも侍の子、商人の子、それに農民の子の3人の子ども達と遊んでおりました。
ある日、子ども達が和尚さんに、「あのリンがほしい」と言いました。和尚さんはそのリンを気に入っていたうえ、3人がたった1つのリンを欲しがるので困ってしまい、「それじゃあ仕方がない、一番うたを作るのが上手かった者に、このリンをやろうじゃないか」と言いました。「よし、じゃあ和尚さん約束したよ」と子ども達。
しばらくして農民の子は、「リンリンと リンとふくれた浜いわし 茶飯にそえて 腹がほてリン」。商人の子は、「リンリンと リンとかけたるこの計〈はかり〉九百九十匁リン」。そして侍の子が、「リンリンと リンといいたるこの刀 ひとよちがえば 首がホロリン」。3人ともあまり上手なので、和尚さんは甲乙を付けることができません。
そこで、「リンリンと 子どもをだましこのリンやられよか 赤目でチョロリン」と言って、子ども達にゆるしてもらいましたとさ。
昔、山の一軒家でじいさんとばあさんが餅つきをしていました。
それを見ていた猿は自分も餅をつきたくなって、2人がいない隙にうすを持ち出し、キツネと一緒にペッタンコペッタンコ餅つきを始めました。やがて餅がつき上がると、キツネが悪い考えを起こして「猿さん、うすを坂から転がして、追いかけ合いをしないかい? 先に追いついた方が餅を食べることにしようじゃないか」と猿に言い、坂の上からうすをゴロンゴロンと転がしました。キツネは足が早いものですから、うすの後をどんどん追いかけていきました。一方の猿はそんなに足が早くないので、遅れてしまいました。
ところが途中でうすが跳ねて、中の餅がとび出して木の枝に引っかかりました。得意がって走っているキツネは、そのことに全く気付かず、うすだけを追いかけていきます。ようやく坂の下に着いてうすを見ますが、中身はからっぽ。「ありゃしまった」とびっくりして振り返ってみると、猿が木の上にのぼって、枝にかかった餅をおいしそうに食べていました。
福井の町は昔から賑やかで、多くの店が軒を連ねておりました。しかしある時、不思議なことが起こります。金色の目をした牛が、夜ごと八百屋を荒らし回るようになったのです。牛がどこから来てどこへ帰って行くのか誰にも分からず、八百屋たちはひどく困っていました。
そんな噂を聞いて、牛をひと目見ようと町にやってきたのは隣村の牛飼い。寝ずの番で見張っていると、はたして金色の目の牛が現れて八百屋を荒らし始めます。牛飼いが後をつけると、散々野菜を食べ終えた牛は、京町の薬屋の前で煙のように姿を消しました。はて、どこへ行ったと上を見上げると、薬屋の看板に金色の目をした立派な牛が彫り込まれています。翌朝、薬屋に事情を話して看板をよく見ると、牛の口元には野菜くずがこびりついていました。
昔から名工の作品には魂が宿るといいますが、この看板もまた左甚五郎という名工の作だったそうです。牛飼いと薬屋は、牛が二度と看板から抜け出さないように、金色の目玉を抜き取ることにしました。それ以来、夜の町に牛が現れることはありませんでした。